現代バラエティ番組の「嘲笑的構造」からいじめを考える

 自分は、笑いと、テレビというものが好きな自分は小さい頃から筋金入りのいわゆる「テレビっ子」であり、テレビ、特にバラエティ番組を見て育ってきた。

現代は、お笑いブームといわれ久しい。それに伴い、笑いを取る、ということ、面白い、ということが社会的ステータスのようなものとして認知されつつある、という社会的変化を感じる。そしてそれらの事実以上に、日常会話の中で「笑い」というものを介したコミュニケーションを求める場面が増えたと感じる。

そんな状況で、現在バラエティ番組は「いじめ」の原因と否定される現状があるが、実際にバラエティを真似た事件が起きている中で、バラエティ番組は青少年の発達を考える上で、悪影響を与える番組なのだろうか、と思い、今回の考察を行うことにした。

戦後演芸の中継という形から始まったテレビにおけるバラエティは、歴史を経て現代の形に至るまでに、「テレビ的笑い」といえるものが、スタッフの笑い声、スーパー(テロップ)、ワイプなどの手法を用いて確立されていった。それを通じて演じてから受け手へと笑いの主導権が移っている。

その中で現代バラエティの中で問題といえる「嘲笑的構造」の笑いを生み出す仕組みとは、バラエティ番組の「仲間意識」、その中の「笑いの基準」で生まれる「内輪ウケ」空間の中で生まれている。その中で生まれる笑いは「ノリ」が面白さを支える、ツッコミが省略された技術的な要素を必要としない何でもありの空間である。言い換えれば、そこでは「笑い」は基本的に個人に帰属するものになる。「素」と「キャラクター」というものを強調し、「一生懸命な人間」や「普段の言動」を「嘲る」という笑いの構造を作り出している。いわゆる「いじり」である。嘲笑の大きな特徴は、「受け手」が「ノリ」で面白さを定義する点にある。そしてそこには「笑い」の絶対視、「場の空間」が何よりも重要視される空間がある。嘲笑は、言動の下品さや、罰ゲームのような暴力行為によって引き起こされているのではない。「一生懸命な人間」や「普通の人間」そこに周りでそれを見ている人間が「嘲笑」を見つけ出し、笑いにつなげていく。そこに「いじり」、「いじめ」の要因を見出せる。「何をするか」ではなく「どう見ているか」という点が問題なのである。

「面白さ」がいわば「市民権」となったともいえる、笑いを集団の中で認められたいために求めていく若者たちの人間関係の中で、テレビの中に映ったバラエティの世界は現実の人間関係にも影響を及ぼしていると思われる。小説「りはめより100倍恐ろしい」でも取り上げられた学校空間における「いじり」とスクールカーストの現状は、現在の若者におけるねじ曲がったいじりの形、笑いの形を示している。

このような嘲笑的構造は現在のバラエティで多く見られるか、ゴールデン69番組を対象に嘲笑構造を調べた結果、多くの番組で構造的に嘲笑を促すようなものが見受けられた。

受け手に委ねられる部分が大きくなってしまい、笑いの外延部分が曖昧になってしまっている現在の状況では、見る人間によって捉え方が大きく異なってしまい、表面的な暴力などの行為自体が悪と捉えられてしまう部分も大きく、テレビというメディアで笑いというものを表現するのは難しいといわざるを得ない。実際ライブなどに表現の場を求める芸人も増えている。そのような現状では藤原和博の提案にあるように、ゴールデンタイムにそのような嘲笑構造を含むバラエティを放映することを制限することも考えていくことが必要なのかもしれない。

しかしその中でも、時代をリードしてきたテレビに、時代を打ち破る新しいバラエティ、笑いを生み出してもらうことに期待したい。